三鈷寺について三鈷寺について

洛西観音霊場第五番   西山国師遺跡霊場第十二番

三鈷寺の歴史

三鈷寺は洛西西山の中腹に位置し、西山宗本山です。
江戸時代に書かれた「都名所図会」に「二大仏七城俯瞰の地」と記され、比叡山を始めとする東山三十六峯、宇治、木津方面と京都盆地を一望できる天空の寺です。
平安時代の承保元年(1074)に源算上人が草庵を結んで北尾往生院と号したのが始まりです。二祖観性法橋は修力に長じ、面技すぐれ応保二年(1162)自ら浄布を織り、之に佛眼曼荼羅を画いて本尊としました。三祖は百人一首にも歌を残された慈鎮和尚(慈円)で、次いで建保元年(1213)法然上人門下の證空善恵国師すなわち西山上人が伝燈されました。上人は浄土宗西山派の派祖であり、ここを不断如法念仏道場とされるとともに名も三鈷寺と改められました。これは背後の山容が仏器の三鈷杵に似ているからと言われています。
宝治元年(1247)十一月二十六日、西山上人入滅となり荼毘に付し、上人に深く帰依された実信房蓮生(宇都宮頼綱)が塔を建て観念三昧院華台廟と称し歴代法燈され今日に及んでいます。
蓮生は宇都宮歌壇の重鎮であり、百人一首の成立に深く関わった人物で、華台廟に西山上人と共に祀られています。
中世は浄土宗西山派の根本道場として多くの寺領を有しましたが、応仁の乱(1467)にて堂宇が荒廃し、その後常念仏・再興の綸旨を授かり、新たに寺領を賜るも旧寺の如くには至りませんでした。
今日まで幾多の変遷を経て、昭和二十六年(1951)五十二世台龍上人の徳望により四宗兼学(天台、真言、律、浄土)の西山宗本山として独立し、平成大修理が平成14年春に完了し現在に至っています。

西山上人(善恵房證空)と三鈷寺

西山上人は西山・弥天・鑑智国師という。
上人は治承元年(1177)11月9日京洛の地にて村上源氏の流れをくむ久我一門源親季の長男として誕生、9歳になった元歴二年(1185)内大臣久我通親公の猶子(養子)となる。道元禅師とは兄弟になる。建久元年(1190)14歳の春、元服の儀の準備が進められていたが、元服を拒み出家を望んだ。親季は出家を許さず、生母が古来から伝えられている一条堀川の戻り橋で橋占いをしたところ、一人の僧が法華経普門品の偈を唱えながら橋を渡られたことからやむなく出家を許されたのである。内大臣は名門・高僧のもとでの出家を望まれたが、法然上人の元への出家の思いが強く、遂に弟子入りし善恵房證空と名付けられた。建久九年(1198)22歳、法然上人が九条兼実の請により浄土宗の根本聖典「選択集」を撰述せられた時には、勘文の役をつとめる。                   
正治元年(1199)23歳、法然上人に代わり九条兼実邸にて選択集を講ずる。
元久元年(1207)28歳、法然上人「七箇條起請文」を制定し西山上人はその第四位に署名する。
法然上人の滅後、建保元年(1213)東山小坂から西山善峯寺北尾往生院(現在の三鈷寺)へ移り住み、34年間にわたり三鈷寺を本拠として教学の大成と京洛における念仏の弘通に専念された。
建保五年(1217)夏、仁和寺経蔵より善導大師の「般舟讃」を発見される。
寛喜元年(1229)53歳、大和當麻寺に参詣し、當麻曼荼羅を拝見、その絵相が観経に説かれた極楽の変相で、しかも上人が善導大師の書物により理解されていた内容と全く同じであったで、感激して、田畑を不断念仏の供料として寄進された。又、この歓びを人々に伝える為に寛喜年間(1129~31)関東から陸奥へと游化された。なお、西山三鈷寺から信州善光寺に至る間に11ケ寺を建て、曼荼羅を安置された。
宝治元年(1247)71歳、後の天台座主道覚法親王のために「鎮勧用心」を述べられる。この年11月26日白川遣迎院にて大往生される。西山三鈷寺に移し、華台廟に祀られた。
上人亡き後、最も重要な弟子の一人の実信房蓮生は、一人三鈷寺に留まり、上人の供養を続けられた。建長年中になると実信房蓮生が願主となり、上人のために多宝塔を建立し、観念三昧院と名付け、建立供養を営まれ、正嘉元年(1257)11月26日ここで不断念仏を始め、正元元年(1259)西山上人13回忌の準備の途中大往生を遂げられた。遺言により上人の石塔の横に実信房蓮生の石塔を建て供養したのである。
現在三鈷寺の右側のお堂が華台廟で西山上人と実信房蓮生を祀っている。

「西山上人絵ものがたり」   鷲津清静著
「西山国師遺跡霊場めぐり」 三山遺跡顕彰会編
「證空辞典」           中西随功監修    より

宝物

御本尊 佛眼曼荼羅(紙本)
阿弥陀如来(木像)
抱止阿弥陀如来(木像)
十一面観音菩薩(木像)
金色不動尊(木像)
宝物 当麻曼荼羅図
大聖歓喜天尊            
西山上人思惟の像(木像)
西山上人思惟の御影図
宇都宮頼綱画像
宇都宮家系図     等

史蹟


旧三鈷寺跡

山門左脇にある卒塔婆形の結界石には「承保元年(1074)」の銘があり、平安末期当寺創建の頃の名残を示しています。
抱止阿弥陀如来(木像)は三条西実隆公筆の頼綱ゆかりの抱止阿弥陀如来縁起によると、貞永元年(1232)八月十五日頼綱入道蓮生が、正真の阿弥陀如来を拝せんと称名念仏していますと、三尊二十五菩薩を具して現れ、空に帰らんとされる姿に名残を悲しみの余り、抱止めてみればこの阿弥陀如来であったのです。世人之を「抱止めの如来」とする尊像です。
山門を出て二百メートルばかり西へ行くと本寺が浄土宗西山派の根本山であるという後嵯峨天皇宣旨になる碑が建っています。
さらに旧三鈷寺跡へ通ずる道の途中に樹齢八百年からなる「西山上人逆さ杖の桂の木」の巨木がそびえています。